3月5日付 編集手帳
雑誌「明星」が終刊を迎え、主宰した与謝野鉄幹の名が世間から忘れられていくとき、妻晶子の文名はいよいよ揺るぎないものになっていく。鉄幹は鬱々と心愉しまぬ日を送ったという◆妻が原稿を書いている書斎の前庭で、夫がさびた包丁を手に、地面の穴から出てくる蟻の列を何時間も叩きつづけている。晶子の自伝的小説「明るみへ」のひとこまにある◆心に憂いを宿した人間はときに、蟻の天敵であるらしい。俳句には加藤楸邨の「蟻殺すわれを三人の子に見られぬ」があり、短歌には現代歌人、竹山広さんの「身に触るる蟻ことごとに殺し来しわれと知らざる蟻の近づく」がある◆「あくせく」という言葉が似合う小さな生きものである。そういう振る舞いにおよんだことはないが、人生の酸味を知る年齢にさしかかり、蟻に心を乱される天敵の憂悶がいくらか分かるようになった◆蟻の味方は子供かも知れない。何年か前、小学3年の男の子が書いた「春」という詩を本紙で読んだ。暖かい日、地面に1匹の蟻を見つける。「きっとアリたちはみんなで/そうだんして/いっぴきが/たしかめに出てきたんだ」◆きょうは「啓蟄」、冬ごもりの虫が地上に這い出るころという。たしかめるのは気温だけでなく、物思いに沈む人がそばにいないかどうかも忘れずに。小さき者よ。
(2008年3月5日01時29分 読売新聞)