デジタルデバイドは
どこに存在するのか?
「格差社会」「格差是正」と、とかく格差が問題視される昨今だが、インターネットの世界においては、格差は狭まるどころかむしろ広がる一方の感がある。ここで筆者が言う格差とは、「デジタルデバイド」のことだ。
PCやケータイ、インターネットといったIT(情報技術)の急速な進化によって、ITを十分に使える人とそうでない人の間には、手に入れることのできる情報の量や質に極端な格差が出来た。この情報格差、あるいはそこから発生する経済的な格差や機会格差などのことを総称して「デジタルデバイド」と呼ぶ。
数年前までは、日本国内のこととして「デジタルデバイドがある」と言う場合には、その人がPCを満足に使えるかどうかが判断基準になっていたと思う。例えば、「これからのインターネット社会で、高齢者のデジタルデバイドをどう解消していくか」といったことが、かなり真剣に語られていた。
だが、日本のインターネット事情はこの数年間で大きく様変わりした。ADSLやFTTHといった家庭向けブロードバンド回線が普及したというのもあるが、それよりも影響が大きいのが、ケータイを使ったインターネット接続の一般化だ。PCスキルを持たない高齢者なども、ケータイメール程度ならば扱える。さらに、ケータイ端末や通信コストもずいぶん安くなり、十代の若者ならばもう大半が1人1台持つようになっている。
ケータイまで含めて考えると、いまや日本で「インターネットにつながっていない」人口はかなり少なくなっているのではないか。先日も筆者は、場外馬券売り場の片隅で、70代とおぼしき男性がカップ酒を片手にワンセグ携帯でレースを観戦しているのを目撃した。おそらくPCなどとは一生縁遠いであろうオジサンだったが、ケータイを介して、インターネットにはつながっているにちがいない。
ここまでケータイやPC、インターネットが普及した、そんな日本のどこに、デジタルデバイドが存在するというのか…。
だまされない2ちゃんねらーと
だまされる一般ユーザー
話は少し脱線する。
2007年10月、「ジャパンメディアネットワーク(以下、JM-NET)」の実質的経営者だった大場武生が逮捕された(証券取引法違反:風説の流布容疑)。以前も本コラムで取り上げたが、これは2002年、「携帯電話が定額かけ放題になる『モブデム』というデバイスを開発した」と虚偽の情報をマスコミに流し、親会社(大盛工業)の株価をつり上げて売り抜けた経済事件である。
この事件自体はインターネットだけを背景とするものではないのだが、当時、ネット上で盛り上がったのが「そもそもモブデムは実現可能かどうか」という論争だ。論争の主な舞台となったのは、Yahoo!にある株式情報ページの掲示板で、モブデムの実現可能性に疑問を投げかける懐疑派と、モブデムを「現状打破の救世主だ」と祭り上げる擁護派がさかんに論争を繰り広げていた。
もちろん本誌の読者なら、このようなうさんくさい話など一笑に付するところだろう。だが、ちょうど当時はさまざまなISPがIP電話サービスを始めるなどして、世間には何となく「インターネット電話=無料」のイメージが広まっていた。JM-NETはまさにそこを突いたのである。
掲示板では、懐疑派が2ちゃんねるや他のWebサイトから情報を収集し、技術的あるいは経営的な視点から「実現不可能」を主張していた。客観的に見ても、モブデムは「これでよくもまぁ…」と思わせるくらい、いたるところで実現可能性が破たんしていたのである。だが、擁護派は信念が固く、懐疑派からどんな否定的証拠を出されても、信じることをやめようとしなかった。
筆者は高みの見物を決め込んでこの論争をウォッチしていたのだが、両者のやり取りがどうにもかみ合わないのが面白かった記憶がある。世間から「アングラ」と見られがちな2ちゃんねるの人々が、むしろクレバーにモブデムの矛盾点について議論を重ねていたのに対し、何となく「インターネットずれ」していない健全なイメージのあった擁護派の人々は、JM-NETが語る「夢のような新技術」に対して何の疑問も抱かずひたすら肯定的なのであった。
だが、擁護派の人々があまりに“純粋”で、懐疑派から出された数々の否定的情報を読み解けず、モブデムの可能性を信じていたのには、さすがに筆者も少し背筋の寒い思いがした。おそらくは中学生でも「実現不可能」と判断できるモブデムを、どうして信じるのか。株価に影響するので、不可能であるとわかっていながら信じているふりをしているのか、それとも本当にわかっていないのか…そこが見分けられなかったのである。
擁護派の人には、モブデムを信じて結果的に株で損をしたというだけでなく、誤った情報を強弁して「風説の流布」に加担したとさえ言えるような人もいた。したがって、少なくとも一部の人は本当に「わかっていなかった」のではないかと考える。筆者は、こういうときに「デジタルデバイド」の存在を痛感するのである。
現在の日本のデジタルデバイドは
情報の本質や価値を見抜く力の差
現在の日本の「デジタルデバイド」「情報格差」とは、単に情報を手に入れる力の格差ではなく、手に入るたくさんの情報の中から本質や価値を読み解く力の格差として現れているのではないだろうか。
もう1つ、別の例をあげてみよう。
2007年7月、ある男子高校生がいじめを苦に飛び降り自殺した。週刊誌などでも報じられたが、自殺の背景には、いじめというよりも「虐待」「拷問」と呼ぶほうがふさわしい級友からのおぞましい仕打ちの数々があった。
亡くなった生徒を追悼するために、2ちゃんねるのある掲示板の有志が集まって、高校に献花に訪れた。集まったのは、大学生から高校生の子どもを持つ社会人までさまざまな、およそ30名程度だったという。
普通ならば美談としてマスコミが取り上げそうな話だが、この行動を評した新聞のコラムは、「『2ちゃんねる』の呼びかけに応じただけ」という参加者の声を引いたうえで、「ゲーム感覚」「見ず知らずが一同に集う『違和感』」「いじめと容易に結びつくその薄気味悪さが、ずっとぬぐえずにいる」(以上、神戸新聞・2007年10月11日)と否定的な表現ばかりを書き連ねた。
ネット発だから「薄気味悪い」、2ちゃんねるだから「ゲーム感覚」「違和感」と即断する態度には、どこか足りないものがある。たしかに2ちゃんねるは相変わらず「玉石混淆」の世界だが、そこには価値の高い「玉」の情報もある。それを見抜けるかどうかで、インターネットに情報を価値あるものにできるかどうかが決まってくるのではないかと思う。
NETWORKWORLD1月号(2007年11月18日発売)掲載
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