2005年 11月分 放映リスト

11月9日(水)放送 第237回
鎖国の扉を開け 〜ジョン万次郎 漂流民の挑戦〜

11月16日(水)放送 第238回
秘められたメディア戦略 〜児玉源太郎 日露戦争のシナリオ〜

11月30日(水)放送 第239回
シリーズ真珠湾への道 <前編> 〜山本五十六 苦渋の作戦立案〜

第237回
鎖国の扉を開け
〜ジョン万次郎 漂流民の挑戦〜

放送日

<本放送>
平成17年11月9日(水)21:15〜21:58 総合 全国
<再放送>     
11月18日(金)1:25〜1:48(※木曜深夜) 総合 近畿地方をのぞく全国
11月18日(金)0:40〜1:23(※木曜深夜) 総合 近畿地方のみ
出演者
松平 定知 アナウンサー
○スタジオゲスト 岩下哲典(いわしたてつのり)さん(明海大学教授・幕末情報史)
番組概要

その時:嘉永7年(1854)2月10日

出来事:日米和親条約に向けて日本が初の対米交渉を行う
 1853年(嘉永6)、黒船の来航で大混乱に陥る幕府。初めての対米交渉を支えたのは一人の元漁民、ジョン万次郎こと中浜万次郎がもたらした生のアメリカ情報だった。
万次郎は、漂流の末アメリカに渡った後、決死の帰国を果たした。万次郎は、アメリカの意図を図りかねる幕府に対して、自ら見聞きした情報をもとに「食料・燃料の補給のために港を開き、船乗りの安全が確保されれば、幕府が忌避する通商を認めなくてもアメリカは日本を侵略しない」と訴えた。幕府は、万次郎の意見を参考に「日米和親条約」の交渉にあたりアメリカの通商要求を突っぱねることに成功した。ペリーは、日本が話し合いに応じなければ琉球・小笠原の占領まで視野に入れていた。万次郎の情報が日本を危機から救ったのである。万次郎の波瀾万丈の人生を通して、現場の「情報」がいかに重要かを問いかける。
番組の内容について
○アメリカで行われている万次郎を記念する祭りについて
万次郎が暮らしたアメリカのフェアヘブン、ニューベッドフォードと万次郎が生まれた土佐清水市が 姉妹都市となり、2年に一度、万次郎の業績を称える「ジョン万祭り」を開催しています。 番組では、今年10月1日に行われた祭りの一コマを紹介しました。

○万次郎の鳥島での体験やアメリカに渡ったときの印象
土佐藩で取り調べられた時に万次郎たちが語った記録「漂客談奇」(ひょうきゃくだんき)から引用しています。
 
○万次郎の開国の訴えについて
万次郎は、阿部正弘に何度も呼び出されてアメリカ事情を聞かれています。また、そのほかの幕府の要人たちにも度々意見を聞かれています。 万次郎の訴えは「御勘定奉行糺問書」にまとめられています。 万次郎はこの中で「アメリカが通商を求めていると聞いたことはなく、 漂流民保護、補給のための港の開港を求めている」と繰り返し訴えていたことが記録されています。

○ペリー来航の目的と万次郎の情報
当時、アメリカは産業革命を迎えていましたが、まだ石油が普及する前で鯨から採る「鯨油」が工業を 支えていました。そのために捕鯨船の乗組員保護や補給港の確保がアメリカにとって重要となっていました。 鯨を求めて日本近海で操業する捕鯨船も増え、日本に開港を求める声が捕鯨業界で大きくなっていました。
漂流の末に、アメリカの捕鯨船に救われアメリカに渡った万次郎は、アメリカが日本に何を求めているのか 理解していました。通商よりも、補給のための港の開港と漂流民保護を重視しているという万次郎の情報は アメリカの意図を図りかねていた幕府にとって、大変貴重なものでした。

○万次郎がホイットフィールド船長に書いた手紙
万次郎がグアムにいるとき書いたものです。現在、アメリカのボルチモアに住む船長の玄孫(5代目) ロバートホイットフィールド氏が保存しています。

○江川英龍が万次郎とともに横浜に向かったことについて
大日本維新史料 「橋本九八郎日記」「安政甲寅日記」「異国船紀聞」の中に万次郎が江川英龍とともに横浜に向かい、 アメリカとの応接について話し合ったとの記載があります。

○林大学頭たち幕府の代表がアメリカの強硬姿勢に困惑していたことについて
大日本維新史料「昨夢紀事」のなかに交易を認めなければ、アメリカは戦も辞さない構えである、と困惑している 代表団の様子が記載されています。

○日米和親条約交渉でのやりとりについて
林大学頭とペリーとの交渉の様子は、主に「大日本維新史料」の中の「横濱応接書日米對話書」の記載によっています

○万次郎が条約交渉の現場にいたことについて
ウイリアム・グリフィス著「ペリー提督伝」からの引用しています

○万次郎の英語の詩について
万次郎が日本に帰国後、長崎から土佐に帰る途中に書いたものです。この書は個人蔵のものです。
番組中に登場した資料について
-
参考文献
@「異国船異聞」       (有隣堂 川澄哲夫 著)
A「中浜万次郎集成」     (小学館 川澄哲夫 編著) 
B「中濱万次郎」     (冨山房インターナショナル 中濱博 著)
C「中浜万次郎」     (講談社 春名徹 著)
D「日本開国史」       (吉川弘文館 石井孝  著)
E「人物叢書 江川坦庵」   (吉川弘文館 仲田正之 著)
F「ペリー提督日本遠征日記」 (小学館 ペリー著)
G「大日本維新史料」 (東大出版会 東大史料編纂所)
※在庫の有無等は、書店または出版社にお問い合わせ下さい


第238回
秘められたメディア戦略
〜児玉源太郎 日露戦争のシナリオ〜

放送日

<本放送>
平成17年11月16日(水)21:15〜21:58 総合 全国
<再放送の予定>
平成17年12月2日(金) 1:00〜01:43(※木曜深夜) 総合 全国(近畿のぞく)  
平成17年12月2日(金) 0:15〜0:58(※木曜深夜)  総合 近畿地方のみ
平成17年12月2日(金)16:05〜16:48        総合 全国
(※再放送の予定は変更されることがあります。当日の新聞などでご確認ください)
出演者
松平 定知 アナウンサー
○スタジオゲスト 稲葉千晴(いなば ちはる)さん(名城大学教授)
番組概要

その時:明治38年(1905)3月11日

出来事:奉天会戦での日本の勝利が世界に報じられたとき
 『もはやロシアに望みはない。ロシア軍は今、最大の危機に陥っている。』(3月11日タイムズ誌)
 日露・奉天会戦の翌日、日本を激賞した記事が世界を駆けめぐった。国力、兵力ともに圧倒的な不利の中、大国ロシアを破った日本は、この報道で、一躍世界の檜舞台に躍り出た。このメディア戦略を仕組んだのが、参謀本部次長の児玉源太郎である。開国以後、不平等条約の締結など欧米列強との格差が深刻化していた日本。児玉は、世界で初めて戦場の様子が逐次報道される日露決戦を、日本アピールの最大のチャンスと捉えていた。
 その最高の舞台として迎えられたのが当時世界最大の陸戦となった奉天会戦。ロシア軍32万に対し、日本軍25万は児玉の見事な陽動作戦で相手を退却に追い込み、日露決戦を決定づけるとともに世界における日本の立場を大きく変え、歴史を動かす。
 番組では、ロシアに勝利することで国際社会の一員として躍進を遂げようとする日本の児玉とそれを阻もうとするロシア軍、双方のメディア戦略を追いながら『メディアと戦争』のあり方について考える。
番組の内容について
○児玉源太郎の肩書きについて
番組中では「陸軍参謀本部次長」として紹介しています。日露開戦前年の明治36年10月に内務大臣から転じて参謀本部入りした児玉が就いた役職です。日本陸軍では伝統的に、参謀のトップである参謀総長ではなく、ナンバー2である「参謀本部次長」が作戦の立案の実務を取り仕切ることとなっていました。当時の参謀総長は大山厳(おおやま いわお)。児玉は上司である大山の全面的な信頼を受け、日露戦争の作戦立案や指揮に当たりました。また開戦から3ヶ月後には、日本国内ではなく現地に司令部を置いて指揮に当たることが必要となり、「満州軍総司令部」が作られます。児玉の肩書きはそれにともない、「陸軍参謀本部次長」から「満州軍総参謀長」へと変わりますが、番組中では日露戦争全体の構想をいかに児玉が練ったかを主眼に置いたため、「陸軍参謀本部次長」を肩書きとして紹介しました。児玉の階級についても、開戦直後に中将から大将に昇進しているのですが、『児玉大将』の呼び名が人口に膾炙しているため、番組では一貫して「陸軍大将・児玉源太郎」として紹介しています。

○奉天会戦の勝敗について
奉天会戦で日本が軍事的に決定的な勝利を収めることができたかについては、今も議論があります。しかし、今回の番組では奉天会戦をメディアがどう報じたかに重点を置いたため、「日本勝利」と紹介しました。番組でも欧米列強が奉天会戦での「日本勝利」を報じた記事を何点か取り上げました。当時の世界の新聞メディアはその大多数が、ロシアが重要拠点を放棄し、統制の取れない形で退却したことから、日本勝利を報じています。
実際の軍事上の勝敗に関しては諸説がありますが、陸軍の戦闘詳報やロシア側の報告から、奉天会戦へ参加した兵員はロシアが32万に対し、日本は25万弱。双方の損害はロシア側が死傷者9万人と捕虜2万人で計11万人以上が戦闘不能に追い込まれたのに対し、日本側も7万人以上が死傷。両軍とも兵力の3分の1近くを失う激戦だったとされています。

○児玉源太郎の対ロシア戦の構想について
日露戦争研究会会長の松村正義氏の日露戦争に関する一連の研究を参考にさせて頂きました。松村氏は日露戦争における対外宣伝の目的を二点を挙げられています。
一点は「日露戦争というものを、戦闘区域的に限局しながら時間的にも短期間の中に六分なりと勝ち目の線に持っていき、やがて講和斡旋者の出現を得ることによって終結」
させること。
一点は「日本の戦争目的を、中立国たる欧米諸国に対して明確に広報し、それらの国民による強い日本支援の世論を形成していくこと」
児玉は陸軍の実質的な作戦立案の責任者として、この二つを実現するために様々なメディア戦略を展開しました。旧・鹿鳴館で開かれた児玉主催の歓迎パーティや従軍記者向けのハンドブックの発行をその実例として番組で紹介しています。
※「」内は『ポーツマスへの道−黄禍論とヨーロッパの末松謙澄』より(原書房1987年 松村正義)

○外国人従軍記者への取材規制と不満について
日本に来た外国人記者は6月まで国内に留め置かれました。また戦地では検閲が厳しく、部隊名や兵数、装備、布陣場所、被害などを電報や手紙を送ることは許されませんでした。     
(防衛庁防衛研究所所蔵『副臨号書類綴』明治37年6月13日―8月9日より)

○記者の規制を緩めるよう出された大本営訓令について
東京の大本営参謀総長・山県有朋が、児玉の上司にあたる満州軍総司令官・大山巌に宛てて発した訓令。この訓令の内容は、各国記者の不満を和らげるため、世界各国に公開されました。陸軍が軍事機密に抵触しない範囲で情報公開を行うことを明らかにしています。
この訓令を受けて、戦地での記者への規制が緩和されました。以下が訓令の全文です。
「宣戦ノ詔勅、炳乎トシテ日月ノ如ク万衆ノ斉シク仰グ所ナリ。人種宗教ノ異同、国風民俗ノ差別ノ如キハ毫モ此際ニ挟ム所ナシ。要唯帝国ノ存立ヲ安全ナラシメ東洋ノ平和ヲ保障シ、文明ノ徳沢ヲ普及セシメ人道ヲ扶植シ、列国一般ノ利益ヲ進捗セントスルニ外ナラズ。
 是ヲ以テ、外国観戦員ニ対シテモ亦須ラク此ノ本義ニ準拠シ、苟モ軍国ノ機密ニ抵触セザル範囲ニ於テハ努メテ懇篤開濶ヲ旨トシ、帝国誠意ノ存スル所ヲ顕明ナラシムルニ於テ遺算ナカラシムルコトヲ望ム。」

○日露戦争を書いた風刺漫画について
熊とハリネズミの漫画は明治37年10月23日付けのニューヨークタイムズ紙(アメリカ)の日曜版、熊とサムライの漫画はフィガロ紙(フランス)のものです。

○第三軍司令官 乃木解任の提案について
乃木率いる第三軍司令部の改造の提案は、実は旅順攻略開始当初の明治37年夏から数度に渡って児玉の元に届いていました。児玉は当初「第三軍司令部は旅順陥落後本国に帰還せしめ、一旦復員解散せしめ、北方のためには新たに一司令部を起こすを可とす。」と考えていました。しかし旅順陥落後、部下の参謀と協議した児玉は「奏功した軍に恥をかかすことは不要なり」と決議。乃木の司令官留任を大本営に提案します。
(※「」内は「機密日露戦史」より(谷寿夫著)) 

○アメリカ人記者の手記の言葉
シカゴ・デイリーニューズ紙の従軍記者スタンレー・ウォッシュバーンは乃木軍に従軍して乃木希典へ私淑するようになり、日露戦争後に「乃木」という手記を発表しました。
番組で紹介した言葉です。
「乃木軍はロシア軍の恐怖心を逆手に取り、兵に突貫の際、皆ロシア語で高く絶叫させた。 我らは皆あの旅順より来れるものなり。我らの前進を妨げることなかれ」

○児玉神社について
連絡先などについては〈主な史跡〉の項を御覧下さい。なお児玉神社が公認神社として内務省の認可を受けたのは大正7年ですが、番組中では、児玉神社発行の「創建の由来」に従い、現在の江ノ島に社殿が完成し、祭礼が行われた大正10年を建立としました。

○児玉の漢詩について
奉天会戦後、戦況報告のために児玉は満州を離れて一旦東京に戻ります。その帰途に作られた漢詩です。漢詩の訳は『児玉大将伝』にならいました。
児玉の漢詩 『様子嶺頭雲影微 江流十里入残眩 青風隔樹空語 墓下香消不堪帰 』
(大意)「満州の地にも春風が吹くようになり、所々では鳥がさえずるようになった。     
     しかし、この戦いで死んでいった兵士たちはもう帰って来ない。 
     彼らの魂を慰めるよすがはもうないのだ。」

○条約改正について
日本は安政5(1858)年に日米修好通商条約を結んで以来、欧米各国とも同様の不平等条約を結んだため、日本政府の意志で関税率を自由に決めることができませんでした。このため、歴代内閣はその改正に努力を続けます。そして児玉の死の5年後、1911(明治44)年に2月21日に日米修好航海条約が調印され、日本は関税自主権を回復します。さらに同年4月3日には同様の内容の日英修好航海条約が結ばれ、数ヶ月後には、日仏、日独、日伊などの間にも新条約が結ばれました。

○児玉の言葉について
日露戦争の前年、明治36年に内務大臣に就任した児玉の言葉です。児玉は行政改革を担当し、省庁の統廃合などに取り組みました。以下がその言葉です。(表記は「児玉藤園将軍逸事」にならいました。)
『この種の事業は小刀を用い、鉋(かんな)を掛ける如き、尋常手段にては不可なり。
 必ずや大鉈をふるってこれを削らざるべからず。』
番組中に登場した資料について
<外交関連資料>
『外国通信諸君ニ告グ』→明治37年3月5日 陸軍配布
『外交電報148号』 →明治37年6月22日 
            アメリカの高平大使から日本の小村外務大臣宛
『クロパトキンの動きを伝える電報』→明治37年9月22日
            天津の日本領事館、伊集院領事から日本の小村外務大臣宛
『大本営訓令』→明治37年9月16日
            大本営参謀総長山形有朋から満州軍総司令官大山巌宛
※上記の史料は全て外務省外交資料館で閲覧が可能です。

<海外新聞>
・Times【タイムズ】(イギリス)  
・NewYork Times【ニューヨークタイムズ】(アメリカ)
・Le Temps【ルタン】(フランス) 
・Frunkfruter Zeitung【フランクフルターツァイトゥング】(ドイツ)
※これらはいずれも各国を代表する新聞で、世論形成に大きな役割を果たしました。
 日露戦争当時のタイムズ・ニューヨークタイムズは国立国会図書館で閲覧が可能です。
 また、東京大学情報学環附属社会情報研究資料センターでは全4紙が閲覧できます。
 ただし、閲覧はマイクロフィルムを見る形式となります。

<国内新聞>
・東京日日新聞
※東京大学情報学環附属社会情報研究資料センター保存の記事を使用しました。
 閲覧はマイクロフィルムを見る形式となります。

<主な肖像写真>
「児玉源太郎肖像」(正面向きのもの)【山口県・周南市美術博物館】
「児玉源太郎肖像」(横向きのもの)【国立国会図書館】
「乃木希典肖像」【文殊社・近現代ライブラリー】
「クロパトキン肖像」【文殊社・近現代ライブラリー】
「乃木とステッセル会見後の写真」【NHK所有写真】
「ローズベルト大統領肖像」【毎日新聞フォトバンク】

<主な史跡>
「児玉神社」神奈川県藤沢市江ノ島1−4−2(自由に拝観できます)
電話0466−22−2410

<映画> 
作品名『二百三高地』(1980年公開)
監督:舛田利雄 脚本:笠原和夫 製作:東映株式会社
※現在、東映よりDVDが市販されています。

<主な写真> 
「米国特派員が撮った日露戦争」コリアーズ編 草思社 
「カラードキュメント 日露戦争 −バートン・ホームズ写真集−」 読売新聞社
(Shaun Dale http://www.BurtonHolmes.Com
参考文献
「児玉藤園将軍逸事」横沢次郎 新高堂書店(台北)  
「児玉藤園将軍」 吉武源五郎編 拓殖新報社
「児玉源太郎伝」 宿利重一著  対胸舎
「児玉大将伝」  杉山茂丸著 清文堂
「クロパトキン回想録」A・クロパトキン 偕行社
「ポーツマスへの道−黄禍論とヨーロッパの末松謙澄」松村正義 原書房
「日露戦争と外国人従軍記者」松村正義 外務省調査月報2004年No.2     
「機密日露戦史」谷寿夫著 原書房
「日露戦争研究の新視点」日露戦争研究会編
「ロシアはなぜ敗れたか」R.M.コフナトン 新人物往来社
「近代日本の対外宣伝」大谷正著 研文出版
「日露戦争の軍事史的研究」大江志乃夫 岩波書店
「世界史として日露戦争」大江志乃夫  立風書房 
「乃木」 スタンレー・ウォッシュバーン 創元社
「米国特派員が撮った日露戦争」コリアーズ編 草思社 
「日露戦争を演出した男モリソン」ウッドハウス暎子著 東洋経済新報社

 


第239回
シリーズ真珠湾への道 <前編>
〜山本五十六 苦渋の作戦立案〜

放送日

<本放送>  
平成17年11月30日(水)21:15〜21:58  総合 全国
<再放送の予定>
平成17年12月6日(火)17:15〜17:58  BS2
平成17年12月9日(金)1:00〜 1:43(※木曜深夜) 総合 全国(近畿のぞく)
平成17年12月9日(金)0:15〜 00:58(※木曜深夜) 総合 近畿地方のみ
          
平成17年12月9日(金)16:05〜16:48  総合 全国
(※再放送の予定は変更されることがあります。当日の新聞などでご確認ください。)
出演者
松平 定知 アナウンサー
○スタジオゲスト 五百旗頭 真(いおきべ まこと)さん  神戸大学教授
番組概要

その時:昭和16(1941)年1月7日

出来事:連合艦隊司令長官・山本五十六が真珠湾攻撃の作戦書を海軍大臣に提出
 太平洋戦争の火蓋を切った真珠湾攻撃。この作戦を指揮した連合艦隊司令長官・山本五十六(いろそく)の生涯を描く前・後編の2回シリーズ。前編は、山本が真珠湾攻撃の作戦を立案するまでの過程を描く。
日本海海戦に参戦した山本は、その後大艦巨砲主義を掲げる海軍で、エリートとして本流を駆け上がる。しかし、アメリカの現地視察でその圧倒的な国力を目のあたりにした山本は、対米戦争は日本を壊滅させる暴挙と確信。軍事強行派に命を狙われながらも対米戦回避を訴えつづけた。
しかし、時代は日米開戦へ。皮肉にも、その作戦の立案・指揮を担うことになったのが、連合艦隊率いる山本だった。 司令長官を辞するか、それとも軍人として職務を全うするか。葛藤の末、山本は司令長官として日本を守る決意を固める。しかし、大国アメリカを相手にどのように戦えば、多大な犠牲を回避できるか。模索を繰り返す山本は、ついにひとつの作戦を生み出す。それは、航空部隊でアメリカの軍事拠点・真珠湾を撃破するというものだった。巨大戦艦の戦いが主流だった当時、航空機による攻撃など前代未聞。しかし山本は、緒戦で敵に大打撃を与え、戦争を早期に終息させることに日本が生き残る一縷の希望を見いだし、山本は真珠湾攻撃の作戦にすべてを賭けていく。
番組の内容について
○「その時」について
昭和16(1941)年の1月7日、山本五十六が真珠湾攻撃の作戦書を海軍大臣・及川古志郎に提出した時

○山本五十六について
山本 五十六(やまもと いそろく)
1884(明治17)年4月4日生−1943(昭和18)年4月18日)没
大日本帝国海軍の軍人。26、27代連合艦隊司令長官。戦死時の階級は海軍大将で、死後、元帥。

○真珠湾攻撃の時刻について
日本時間で第1次攻撃がはじまった時刻として「12月8日午前3時25分」を表記。ハワイ現地時間だと「12月7日午前7時55分」となります

○「日米戦争は一大凶事(きょうじ)なり」という山本の言葉
※連合艦隊司令長官時代、山本が提出した意見書より

○山本五十六の名前について
山本五十六は、旧長岡藩士の家系・高野貞吉(さだよし)の六男です。しかし、大正5年33歳の時、旧長岡藩士の山本帯刀の養子となり家督を相続。以降、山本姓となりました。
日本海開戦時は高野五十六の名前でしたが、番組では混乱を避けるため、広く知られている「山本五十六」で統一しました。

○日本海海戦(日露戦争)の制服、親への手紙について
日本海海戦時に着用していた制服、および、療養中に親へと送った手紙ともに、
新潟県長岡市の「如(にょ)是(ぜ)蔵(ぞう)博物館」に所蔵されております。
*如是蔵博物館:住所 新潟県長岡市福住1丁目3−8

○療養中親へ送った手紙について
「微傷(びしょう)をもって、此(こ)の大勝の萬(まん)一(いち)に値せしことを思へば、むしろ感泣(かんきゅう)に不堪(たえず)」
(※一部抜粋)

○日米の仮想敵国について
日本は、明治40(1907)年に制定された「帝国国防方針」という国防対策の基本方針の中で、ロシア・アメリカ・フランス・ドイツを仮想敵国とし、これらの国に対抗するため陸海軍備の充実をはかっていった。
対するアメリカも対日戦争計画「オレンジ・プラン」を1907年に策定し両国はお互いを仮想敵国と想定していました。

○アメリカを視察した山本の言葉
「日本の国力でアメリカ相手の戦争も建艦競争もやり抜けるものではない」
※山本は大正8〜10年米国駐在武官、大正14〜15年米国在勤日本大使館付武官を勤め、米国各地を視察しています。

○軍縮条約について
山本が全権代表に任命されたのは、昭和9(1934)年第2次ロンドン軍縮会議の予備交渉です。
番組での表現「これまで定められていたアメリカ・イギリス・日本の主力艦の保有比率は、5対5対3」は、大正11(1922)年に締結されたワシントン海軍軍縮会議で決められた主力艦保有比率です。

○第2次ロンドン軍縮条約予備交渉に関して
日本政府(岡田内閣)は予備交渉に対し、差別比率主義の排撃、総トン数主義の採用、ワシントン条約の廃止などを骨子とする根本方針を決定していました。
日本国内で屈辱的条約破棄を主張する声は高く、日本政府は不平等条約破棄を主張していましたが、山本は日本側条件の譲歩を求めた請訓を2度ほどロンドンから日本政府へと送っています。しかし、日本政府はこの予備交渉の内容をよしとせず、1934(昭和9)年12月ワシントン条約を破棄、1936年1月ロンドン軍縮会議も脱退します。

○軍縮条約に関する山本の真意(考え方)について
「条約は、日本が3に縛られているのではない、米英を5に縛っている。
条約が消え、無制限の建艦競争が始まれば国力の差から、5対3どころか10対1に引き離される。」
※山本の発言をまとめた言葉です

○山本の言葉について
「海軍を退いて郷里の長岡に帰るか、モナコでばくち打ちにでもなるか」
※当時山本は周囲の人に上記のような言葉を語っていました

○「帝国国防方針」について
日露戦争後、1907年4月に制定された国防対策の基本方針

○「八八艦隊(はちはちかんたい)」について
「帝国国防方針」に付属する「国防所要兵力」中に示された戦艦8隻・装甲巡洋艦8隻を中心に艦隊を装備しようとした日本海軍の方針

○三国同盟について
正式には“日独伊三国同盟”。番組内では、当時山本たちが残した言葉でも使われることの多い、簡略化した“三国同盟”の表現を使いました。

○三国同盟に反対する山本の言葉
「日米正面衝突を回避するため、万般(ばんぱん)の策をめぐらすべきで、
 絶対に日独同盟を締結すべきではない」

○山本の遺書について
昭和14年5月31日付け、山本の遺書“述志”からの一部抜粋。
「この身(み)滅(ほろ)ぼすべし、この志奪(こころざし・うば)ふべからず。」
※防衛研究所に所収

○五十六の長男、山本義正さんの手紙について
今回番組では、山本五十六の長男・山本義正(やまもと よしまさ)さんに当時の家庭での山本五十六の状況をお手紙でお伺いすることができました。
下記、番組内で抜粋した義正さんの手紙の文面(※一部抜粋)
「父の帰宅は深夜に及びました。毎晩のように遅く訪れる客。
 刺客や暴漢が押し入ろうとすれば簡単に入ってこられる無防備な家でした。」
「何時修羅場が起きるかも分からない状況の中で母は毅然とした態度をくずさず、
 子どもたちに不安を抱かせるような様子は一切見せませんでした。」
「私は父の書斎の机の上の本を何気なく手に取りました。
 見開きを開けると毛筆で大きく父の字が躍っていました。」
「国(くに)大(だい)なりといえども 戦(いくさ)を好(この)まば必ず亡(ほろ)ぶ」
 (※「国大なり…」は、山本五十六がよく書いていた言葉です)

○三国同盟に対する方針を決める海軍会議における山本の言葉
「三国同盟が成立すれば、現状でも兵力は不足している上に、
 米英からの資材はこなくなる。一体これをどうするつもりなのか。」

○対米戦について述べた山本の言葉
「アメリカと戦争すると言うことは、全世界を相手にすることだ。
 東京辺りは三度くらい丸焼けにされ、惨めな姿になってしまう。」

○五十六の長男・山本義正さんの手紙内容について(スタジオでご紹介したもの)
「このころの世の中は、五・一五、二・二六、陸軍軍務局長の刺殺など殺伐とした事件が
次から次へと起きていた時代でした。私は、今も父の遺書を繰り返し読むとき、
武人として華々しく第一戦で戦死することでなく、世を挙げての亡国の風潮に抗して、
ここを死にどころとして戦い続けた父の姿を今も思い出します。」
(※一部抜粋)

○山本が友人へ送った手紙について
「個人としての意見と正確に正反対の決意を固め、
 其の方向に一途邁進の外なき現在の立場は、まことに変なものなり。
 これもさだめ(※命)というものか」
※友人とは、堀悌吉(ほりていきち)―海軍兵学校第32期の山本の同期。「兵学校創立以来、未だ見ざる秀才」といわれ、山本とは盟友であった。しかし、昭和9年山本が日本代表として、第2次ロンドン軍縮会議予備交渉に臨んでいるあいだに、“条約締結”“国際協調”派であった堀は、予備役編入という左遷人事を受けていた。山本は盟友・堀に何通もの心情を書いた手紙を送っている。(※一部抜粋)

○「漸減(ぜんげん)邀撃(ようげき)作戦(さくせん)」について
太平洋の日本側でアメリカ艦隊を待ち受け、駆逐艦などを使ってアメリカ艦隊を少しずつ減らし、戦艦決戦で勝負をつけるという作戦

○大艦巨砲主義に反対した山本の言葉について
「巨艦を造っても不沈はありえない。今後の戦闘で戦艦は無用の長物となる。
 飛行機の攻撃力が、非常なる威力を増大する」

○紹介した航空機について
山本が航空本部長就任の頃に活躍していたものとして96式艦上攻撃機、その後の飛行機(真珠湾攻撃にも使われたもの)として97式艦上攻撃機を紹介しています。
97式艦上攻撃機の航続距離は、魚雷などをつけず落下式の追加タンクをつければ2000km近くですが、今回は追加燃料タンクをつけず魚雷などを搭載した時の航続距離を1200kmとしています。

○「その時」で示した作戦書について
昭和16(1941)年1月7日、山本は、海軍大臣・及川古志郎(おいかわこしろう)に対米戦に関する作戦案を提出。この文面は防衛研究所に残されています。番組ではその内容から一部抜粋をしています。
*作戦方針
「開戦(かいせん)劈頭(へきとう) 敵主力艦隊を猛撃撃破して、米国海軍及米国民をして救うべからざる程度に
 その志気を沮喪(そそう)せしむる」
*具体的方策
「敵主力の大部隊真珠港に在泊せる場合には、飛行機隊を以って
之を徹底的に撃破し且つ同港を閉塞(へいそく)す」

○真珠湾攻撃に対する山本の言葉について
「私が長官であるかぎり真珠湾攻撃は必ずやる。そして、やるかぎりは全力を尽くす。」
 
○山本の生家について
場所:新潟県長岡市坂之上町3丁目、山本五十六記念公園内
(現在残っている家は復元されたものです)

○大黒(だいこく)古戦場跡について
新潟県長岡市大黒町
山本五十六が中将時代に書を揮毫した記念碑があります。

○長岡高等学校での山本の言葉について
山本五十六の母校・長岡高等学校(卒業当時は長岡中学校)での昭和14年の講演より
「私は諸君に対し、銃をとって第一線に立てとは決して申しません。
 あなた方に希望するところは、学問を飽くまで静かな平らかな心を持って勉強し、
 将来発展の基礎を造って頂きたいと熱望する次第であります。
 どこまでも気を広く持ち、高遠なる所に目標をおいて、日本のため進んでください。」
(※一部抜粋)
番組中に登場した資料について
■番組で使用した映像について
○日本海海戦のイメージ  「日本海大海戦 海ゆかば」東映株式会社
○航空機の演習イメージ  「トラトラトラ!」20世紀FOX
○甲板を掃除する水夫    アニドウ・フィルム
参考文献
「山本五十六 上・下」 著者 阿川弘之 発行 新潮文庫
「人間・山本五十六」 著者 反町栄一 発行 光和堂
「父 山本五十六」  著者 山本義正 発行 恒文社
「歴史群像シリーズ52 山本五十六」 発行 学習研究社
「全記録 人間山本五十六」  編 太平洋戦争研究会





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