第237回
鎖国の扉を開け
〜ジョン万次郎 漂流民の挑戦〜 |
放送日
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<本放送>
平成17年11月9日(水)21:15〜21:58 総合 全国
<再放送>
11月18日(金)1:25〜1:48(※木曜深夜) 総合 近畿地方をのぞく全国
11月18日(金)0:40〜1:23(※木曜深夜) 総合 近畿地方のみ |
出演者 |
松平 定知 アナウンサー
○スタジオゲスト 岩下哲典(いわしたてつのり)さん(明海大学教授・幕末情報史) |
番組概要 |
その時:嘉永7年(1854)2月10日
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出来事:日米和親条約に向けて日本が初の対米交渉を行う |
1853年(嘉永6)、黒船の来航で大混乱に陥る幕府。初めての対米交渉を支えたのは一人の元漁民、ジョン万次郎こと中浜万次郎がもたらした生のアメリカ情報だった。
万次郎は、漂流の末アメリカに渡った後、決死の帰国を果たした。万次郎は、アメリカの意図を図りかねる幕府に対して、自ら見聞きした情報をもとに「食料・燃料の補給のために港を開き、船乗りの安全が確保されれば、幕府が忌避する通商を認めなくてもアメリカは日本を侵略しない」と訴えた。幕府は、万次郎の意見を参考に「日米和親条約」の交渉にあたりアメリカの通商要求を突っぱねることに成功した。ペリーは、日本が話し合いに応じなければ琉球・小笠原の占領まで視野に入れていた。万次郎の情報が日本を危機から救ったのである。万次郎の波瀾万丈の人生を通して、現場の「情報」がいかに重要かを問いかける。 |
番組の内容について |
○アメリカで行われている万次郎を記念する祭りについて
万次郎が暮らしたアメリカのフェアヘブン、ニューベッドフォードと万次郎が生まれた土佐清水市が
姉妹都市となり、2年に一度、万次郎の業績を称える「ジョン万祭り」を開催しています。
番組では、今年10月1日に行われた祭りの一コマを紹介しました。
○万次郎の鳥島での体験やアメリカに渡ったときの印象
土佐藩で取り調べられた時に万次郎たちが語った記録「漂客談奇」(ひょうきゃくだんき)から引用しています。
○万次郎の開国の訴えについて
万次郎は、阿部正弘に何度も呼び出されてアメリカ事情を聞かれています。また、そのほかの幕府の要人たちにも度々意見を聞かれています。
万次郎の訴えは「御勘定奉行糺問書」にまとめられています。
万次郎はこの中で「アメリカが通商を求めていると聞いたことはなく、
漂流民保護、補給のための港の開港を求めている」と繰り返し訴えていたことが記録されています。
○ペリー来航の目的と万次郎の情報
当時、アメリカは産業革命を迎えていましたが、まだ石油が普及する前で鯨から採る「鯨油」が工業を
支えていました。そのために捕鯨船の乗組員保護や補給港の確保がアメリカにとって重要となっていました。
鯨を求めて日本近海で操業する捕鯨船も増え、日本に開港を求める声が捕鯨業界で大きくなっていました。
漂流の末に、アメリカの捕鯨船に救われアメリカに渡った万次郎は、アメリカが日本に何を求めているのか
理解していました。通商よりも、補給のための港の開港と漂流民保護を重視しているという万次郎の情報は
アメリカの意図を図りかねていた幕府にとって、大変貴重なものでした。
○万次郎がホイットフィールド船長に書いた手紙
万次郎がグアムにいるとき書いたものです。現在、アメリカのボルチモアに住む船長の玄孫(5代目)
ロバートホイットフィールド氏が保存しています。
○江川英龍が万次郎とともに横浜に向かったことについて
大日本維新史料 「橋本九八郎日記」「安政甲寅日記」「異国船紀聞」の中に万次郎が江川英龍とともに横浜に向かい、
アメリカとの応接について話し合ったとの記載があります。
○林大学頭たち幕府の代表がアメリカの強硬姿勢に困惑していたことについて
大日本維新史料「昨夢紀事」のなかに交易を認めなければ、アメリカは戦も辞さない構えである、と困惑している
代表団の様子が記載されています。
○日米和親条約交渉でのやりとりについて
林大学頭とペリーとの交渉の様子は、主に「大日本維新史料」の中の「横濱応接書日米對話書」の記載によっています
○万次郎が条約交渉の現場にいたことについて
ウイリアム・グリフィス著「ペリー提督伝」からの引用しています
○万次郎の英語の詩について
万次郎が日本に帰国後、長崎から土佐に帰る途中に書いたものです。この書は個人蔵のものです。 |
番組中に登場した資料について |
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参考文献 |
@「異国船異聞」 (有隣堂 川澄哲夫 著)
A「中浜万次郎集成」 (小学館 川澄哲夫 編著)
B「中濱万次郎」 (冨山房インターナショナル 中濱博 著)
C「中浜万次郎」 (講談社 春名徹 著)
D「日本開国史」 (吉川弘文館 石井孝
著)
E「人物叢書 江川坦庵」 (吉川弘文館 仲田正之 著)
F「ペリー提督日本遠征日記」 (小学館 ペリー著)
G「大日本維新史料」 (東大出版会 東大史料編纂所)
※在庫の有無等は、書店または出版社にお問い合わせ下さい |
第238回
秘められたメディア戦略
〜児玉源太郎 日露戦争のシナリオ〜 |
放送日
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<本放送>
平成17年11月16日(水)21:15〜21:58 総合 全国
<再放送の予定>
平成17年12月2日(金) 1:00〜01:43(※木曜深夜) 総合 全国(近畿のぞく)
平成17年12月2日(金) 0:15〜0:58(※木曜深夜) 総合 近畿地方のみ
平成17年12月2日(金)16:05〜16:48 総合 全国
(※再放送の予定は変更されることがあります。当日の新聞などでご確認ください) |
出演者 |
松平 定知 アナウンサー
○スタジオゲスト 稲葉千晴(いなば ちはる)さん(名城大学教授) |
番組概要 |
その時:明治38年(1905)3月11日
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出来事:奉天会戦での日本の勝利が世界に報じられたとき |
『もはやロシアに望みはない。ロシア軍は今、最大の危機に陥っている。』(3月11日タイムズ誌)
日露・奉天会戦の翌日、日本を激賞した記事が世界を駆けめぐった。国力、兵力ともに圧倒的な不利の中、大国ロシアを破った日本は、この報道で、一躍世界の檜舞台に躍り出た。このメディア戦略を仕組んだのが、参謀本部次長の児玉源太郎である。開国以後、不平等条約の締結など欧米列強との格差が深刻化していた日本。児玉は、世界で初めて戦場の様子が逐次報道される日露決戦を、日本アピールの最大のチャンスと捉えていた。
その最高の舞台として迎えられたのが当時世界最大の陸戦となった奉天会戦。ロシア軍32万に対し、日本軍25万は児玉の見事な陽動作戦で相手を退却に追い込み、日露決戦を決定づけるとともに世界における日本の立場を大きく変え、歴史を動かす。
番組では、ロシアに勝利することで国際社会の一員として躍進を遂げようとする日本の児玉とそれを阻もうとするロシア軍、双方のメディア戦略を追いながら『メディアと戦争』のあり方について考える。
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番組の内容について |
○児玉源太郎の肩書きについて
番組中では「陸軍参謀本部次長」として紹介しています。日露開戦前年の明治36年10月に内務大臣から転じて参謀本部入りした児玉が就いた役職です。日本陸軍では伝統的に、参謀のトップである参謀総長ではなく、ナンバー2である「参謀本部次長」が作戦の立案の実務を取り仕切ることとなっていました。当時の参謀総長は大山厳(おおやま いわお)。児玉は上司である大山の全面的な信頼を受け、日露戦争の作戦立案や指揮に当たりました。また開戦から3ヶ月後には、日本国内ではなく現地に司令部を置いて指揮に当たることが必要となり、「満州軍総司令部」が作られます。児玉の肩書きはそれにともない、「陸軍参謀本部次長」から「満州軍総参謀長」へと変わりますが、番組中では日露戦争全体の構想をいかに児玉が練ったかを主眼に置いたため、「陸軍参謀本部次長」を肩書きとして紹介しました。児玉の階級についても、開戦直後に中将から大将に昇進しているのですが、『児玉大将』の呼び名が人口に膾炙しているため、番組では一貫して「陸軍大将・児玉源太郎」として紹介しています。
○奉天会戦の勝敗について
奉天会戦で日本が軍事的に決定的な勝利を収めることができたかについては、今も議論があります。しかし、今回の番組では奉天会戦をメディアがどう報じたかに重点を置いたため、「日本勝利」と紹介しました。番組でも欧米列強が奉天会戦での「日本勝利」を報じた記事を何点か取り上げました。当時の世界の新聞メディアはその大多数が、ロシアが重要拠点を放棄し、統制の取れない形で退却したことから、日本勝利を報じています。
実際の軍事上の勝敗に関しては諸説がありますが、陸軍の戦闘詳報やロシア側の報告から、奉天会戦へ参加した兵員はロシアが32万に対し、日本は25万弱。双方の損害はロシア側が死傷者9万人と捕虜2万人で計11万人以上が戦闘不能に追い込まれたのに対し、日本側も7万人以上が死傷。両軍とも兵力の3分の1近くを失う激戦だったとされています。
○児玉源太郎の対ロシア戦の構想について
日露戦争研究会会長の松村正義氏の日露戦争に関する一連の研究を参考にさせて頂きました。松村氏は日露戦争における対外宣伝の目的を二点を挙げられています。
一点は「日露戦争というものを、戦闘区域的に限局しながら時間的にも短期間の中に六分なりと勝ち目の線に持っていき、やがて講和斡旋者の出現を得ることによって終結」
させること。
一点は「日本の戦争目的を、中立国たる欧米諸国に対して明確に広報し、それらの国民による強い日本支援の世論を形成していくこと」
児玉は陸軍の実質的な作戦立案の責任者として、この二つを実現するために様々なメディア戦略を展開しました。旧・鹿鳴館で開かれた児玉主催の歓迎パーティや従軍記者向けのハンドブックの発行をその実例として番組で紹介しています。
※「」内は『ポーツマスへの道−黄禍論とヨーロッパの末松謙澄』より(原書房1987年 松村正義)
○外国人従軍記者への取材規制と不満について
日本に来た外国人記者は6月まで国内に留め置かれました。また戦地では検閲が厳しく、部隊名や兵数、装備、布陣場所、被害などを電報や手紙を送ることは許されませんでした。
(防衛庁防衛研究所所蔵『副臨号書類綴』明治37年6月13日―8月9日より)
○記者の規制を緩めるよう出された大本営訓令について
東京の大本営参謀総長・山県有朋が、児玉の上司にあたる満州軍総司令官・大山巌に宛てて発した訓令。この訓令の内容は、各国記者の不満を和らげるため、世界各国に公開されました。陸軍が軍事機密に抵触しない範囲で情報公開を行うことを明らかにしています。
この訓令を受けて、戦地での記者への規制が緩和されました。以下が訓令の全文です。
「宣戦ノ詔勅、炳乎トシテ日月ノ如ク万衆ノ斉シク仰グ所ナリ。人種宗教ノ異同、国風民俗ノ差別ノ如キハ毫モ此際ニ挟ム所ナシ。要唯帝国ノ存立ヲ安全ナラシメ東洋ノ平和ヲ保障シ、文明ノ徳沢ヲ普及セシメ人道ヲ扶植シ、列国一般ノ利益ヲ進捗セントスルニ外ナラズ。
是ヲ以テ、外国観戦員ニ対シテモ亦須ラク此ノ本義ニ準拠シ、苟モ軍国ノ機密ニ抵触セザル範囲ニ於テハ努メテ懇篤開濶ヲ旨トシ、帝国誠意ノ存スル所ヲ顕明ナラシムルニ於テ遺算ナカラシムルコトヲ望ム。」
○日露戦争を書いた風刺漫画について
熊とハリネズミの漫画は明治37年10月23日付けのニューヨークタイムズ紙(アメリカ)の日曜版、熊とサムライの漫画はフィガロ紙(フランス)のものです。
○第三軍司令官 乃木解任の提案について
乃木率いる第三軍司令部の改造の提案は、実は旅順攻略開始当初の明治37年夏から数度に渡って児玉の元に届いていました。児玉は当初「第三軍司令部は旅順陥落後本国に帰還せしめ、一旦復員解散せしめ、北方のためには新たに一司令部を起こすを可とす。」と考えていました。しかし旅順陥落後、部下の参謀と協議した児玉は「奏功した軍に恥をかかすことは不要なり」と決議。乃木の司令官留任を大本営に提案します。
(※「」内は「機密日露戦史」より(谷寿夫著))
○アメリカ人記者の手記の言葉
シカゴ・デイリーニューズ紙の従軍記者スタンレー・ウォッシュバーンは乃木軍に従軍して乃木希典へ私淑するようになり、日露戦争後に「乃木」という手記を発表しました。
番組で紹介した言葉です。
「乃木軍はロシア軍の恐怖心を逆手に取り、兵に突貫の際、皆ロシア語で高く絶叫させた。 我らは皆あの旅順より来れるものなり。我らの前進を妨げることなかれ」
○児玉神社について
連絡先などについては〈主な史跡〉の項を御覧下さい。なお児玉神社が公認神社として内務省の認可を受けたのは大正7年ですが、番組中では、児玉神社発行の「創建の由来」に従い、現在の江ノ島に社殿が完成し、祭礼が行われた大正10年を建立としました。
○児玉の漢詩について
奉天会戦後、戦況報告のために児玉は満州を離れて一旦東京に戻ります。その帰途に作られた漢詩です。漢詩の訳は『児玉大将伝』にならいました。
児玉の漢詩 『様子嶺頭雲影微 江流十里入残眩 青風隔樹空語 墓下香消不堪帰 』
(大意)「満州の地にも春風が吹くようになり、所々では鳥がさえずるようになった。
しかし、この戦いで死んでいった兵士たちはもう帰って来ない。
彼らの魂を慰めるよすがはもうないのだ。」
○条約改正について
日本は安政5(1858)年に日米修好通商条約を結んで以来、欧米各国とも同様の不平等条約を結んだため、日本政府の意志で関税率を自由に決めることができませんでした。このため、歴代内閣はその改正に努力を続けます。そして児玉の死の5年後、1911(明治44)年に2月21日に日米修好航海条約が調印され、日本は関税自主権を回復します。さらに同年4月3日には同様の内容の日英修好航海条約が結ばれ、数ヶ月後には、日仏、日独、日伊などの間にも新条約が結ばれました。
○児玉の言葉について
日露戦争の前年、明治36年に内務大臣に就任した児玉の言葉です。児玉は行政改革を担当し、省庁の統廃合などに取り組みました。以下がその言葉です。(表記は「児玉藤園将軍逸事」にならいました。)
『この種の事業は小刀を用い、鉋(かんな)を掛ける如き、尋常手段にては不可なり。
必ずや大鉈をふるってこれを削らざるべからず。』 |
番組中に登場した資料について |
<外交関連資料>
『外国通信諸君ニ告グ』→明治37年3月5日 陸軍配布
『外交電報148号』 →明治37年6月22日
アメリカの高平大使から日本の小村外務大臣宛
『クロパトキンの動きを伝える電報』→明治37年9月22日
天津の日本領事館、伊集院領事から日本の小村外務大臣宛
『大本営訓令』→明治37年9月16日
大本営参謀総長山形有朋から満州軍総司令官大山巌宛
※上記の史料は全て外務省外交資料館で閲覧が可能です。
<海外新聞>
・Times【タイムズ】(イギリス)
・NewYork Times【ニューヨークタイムズ】(アメリカ)
・Le Temps【ルタン】(フランス)
・Frunkfruter Zeitung【フランクフルターツァイトゥング】(ドイツ)
※これらはいずれも各国を代表する新聞で、世論形成に大きな役割を果たしました。
日露戦争当時のタイムズ・ニューヨークタイムズは国立国会図書館で閲覧が可能です。
また、東京大学情報学環附属社会情報研究資料センターでは全4紙が閲覧できます。
ただし、閲覧はマイクロフィルムを見る形式となります。
<国内新聞>
・東京日日新聞
※東京大学情報学環附属社会情報研究資料センター保存の記事を使用しました。
閲覧はマイクロフィルムを見る形式となります。
<主な肖像写真>
「児玉源太郎肖像」(正面向きのもの)【山口県・周南市美術博物館】
「児玉源太郎肖像」(横向きのもの)【国立国会図書館】
「乃木希典肖像」【文殊社・近現代ライブラリー】
「クロパトキン肖像」【文殊社・近現代ライブラリー】
「乃木とステッセル会見後の写真」【NHK所有写真】
「ローズベルト大統領肖像」【毎日新聞フォトバンク】
<主な史跡>
「児玉神社」神奈川県藤沢市江ノ島1−4−2(自由に拝観できます)
電話0466−22−2410
<映画>
作品名『二百三高地』(1980年公開)
監督:舛田利雄 脚本:笠原和夫 製作:東映株式会社
※現在、東映よりDVDが市販されています。
<主な写真>
「米国特派員が撮った日露戦争」コリアーズ編 草思社
「カラードキュメント 日露戦争 −バートン・ホームズ写真集−」 読売新聞社
(Shaun Dale http://www.BurtonHolmes.Com) |
参考文献 |
「児玉藤園将軍逸事」横沢次郎 新高堂書店(台北)
「児玉藤園将軍」 吉武源五郎編 拓殖新報社
「児玉源太郎伝」 宿利重一著 対胸舎
「児玉大将伝」 杉山茂丸著 清文堂
「クロパトキン回想録」A・クロパトキン 偕行社
「ポーツマスへの道−黄禍論とヨーロッパの末松謙澄」松村正義 原書房
「日露戦争と外国人従軍記者」松村正義 外務省調査月報2004年No.2
「機密日露戦史」谷寿夫著 原書房
「日露戦争研究の新視点」日露戦争研究会編
「ロシアはなぜ敗れたか」R.M.コフナトン 新人物往来社
「近代日本の対外宣伝」大谷正著 研文出版
「日露戦争の軍事史的研究」大江志乃夫 岩波書店
「世界史として日露戦争」大江志乃夫 立風書房
「乃木」 スタンレー・ウォッシュバーン 創元社
「米国特派員が撮った日露戦争」コリアーズ編 草思社
「日露戦争を演出した男モリソン」ウッドハウス暎子著 東洋経済新報社 |