「釣り」も「煽り」もなかった時代
古きよきネット議論のあり方
「炎上」ということばの語源は、炎を表す「フレーム(Flame)」ではないかと言われている。「フレーム」はPC通信時代やネットニュース時代に使われていたことばで、掲示板やチャット、メーリングリストなどでの「論争」を表す用語だった。
れい明期から今に至るまで、ネット上では数々の論争が行われてきた。無意味な論争もあれば、意義のある論争もあった。
例えば昔は、Windows VS Macintoshの論争が頻繁に行われていた。この論争は常にフレームに発展していたが、どちらかというと宗教論争に近く、結論の出ない会議のようなイメージだったと記憶している。
ともあれ、多くの論争は、正確には「論争」というより、無意味と知りながら会話を楽しむ「ディベート」のようなものだったと思う。例えば、大仰な表現や高尚な理念を振りかざして真剣に論じられているテーマが、実は「猫のえさの選び方」だったりしたものだ。
論争は1対1の場合もあれば、1対多の場合、多対多の場合もあった。どの場合も、会話としては熱くなりながらもどこか冷めていて、筆者自身も、人間が生きていくうえであまり意味のない会話のほうが楽しかった。もちろん、今で言う「炎上」に近いフレームもあったが、そういうのはほんとうにごく一部であった気がする。
要は、多くが「論争のための論争」であり、仮定に仮定を重ねたり、相手から「一本」を取るためのさまざまな「仕掛け」を発言の中に施したりしながら、大人どうしの会話のキャッチボールを楽しんでいたのである。
物量作戦、知恵、粘着力…
「荒らし」行為に必要な要素
ディベートを行うには、匿名の環境では無理がある。「Aさんは●●という論旨の発言をしたが、それはその前の▲▲という発言と矛盾する」というような会話を楽しむには、本名でもニックネームでも、個人を特定することが必須だからだ。
そのためかどうかわからないが、2ちゃんねるなどの匿名掲示板システムにおける論争は、「フレーム」と呼ぶには似つかわしくない。「荒らし」「たたき」「煽り」「釣り」などの2ちゃんねる用語を見ても、フレームというよりは、「ケンカ」に近いイメージがある。
例えば「荒らし」という行為は、「攻撃」を目的とした書き込みで、会話もディベートも反論も必要としないものだ。単体の書き込みではほとんど効果がなく、大人数&24時間体制の「物量作戦」と、相手の意表を突く知恵が必要とされる。
また、流れの速い掲示板においては、ぴったりと掲示板に張り付く「粘着力」も必要だ。さらに、匿名掲示板とはいえ、犯罪行為と断定されると司直の手も入るので、ぎりぎりで止める判断力も求められる(そう考えると、「荒らし」にもそれなりのテクニックが必要だ)。
ともあれ「荒らし」は、会話も何も成立しないかなり一方的な行為であり、荒らしの台風が過ぎ去ったあとは、ぺんぺん草も生えないようなイメージがある。
ディベート的で、名前やニックネームが必要とされた「旧フレーム」に比べ、釣りや荒らしが存在し、一方的で匿名も可である昨今のフレームは、「新フレーム」とでも言うべきだろうか。
「炎上=罪悪」と
言い切れない理由とは
そして「炎上」も、新フレームにおける代表的な現象である。炎上の明確な定義は難しいが、例えばブログの1つのエントリに対して、否定的なコメントが数百、数千もついてしまう現象は「炎上」と言ってよいだろう。2ちゃんねるの「ネットウォッチ」掲示板などに引用されるような事態になれば、確実に炎上である。
言うまでもなく、炎上は「旧フレーム」とはまったく異なる現象だ。そこには論理や会話はあるとしても、常に1対多の状況であり、どれほど腕に覚えの論客でも太刀打ちできない。言うなれば、1,000匹のピラニアに食い尽くされる獲物のようなものだ。
どのようなブログが炎上の対象になるかと言えば、「一言居士」「知ったかぶり」「言い訳」「厚顔無恥」「パクリ」「傲慢」「下品」などがキーワードとなっているようだ。一度炎上してしまうと、そのブログサイトはかなり強烈なダメージを追うことになる。余談だが、炎上がさらに発展すると「祭り」に発展し、「まとめサイト」ができあがったり、ネット系ニュースサイトにも取り上げられたりするようになる。
では、炎上は「罪悪」なのだろうか。世間では当然のように炎上を嫌う向きがあるが、筆者は必ずしもそうは言い切れないと思う。
本コラムで何度か指摘したことだが、ブログではさまざまな意見が発信できる。個人的な日記から、経済情報や最新ニュースに対するコメント、さらに政治観や宗教観まで、情報の発信に制限はない。特に、大手メディアでタブーとされている微妙な問題(皇室問題や嫌韓についてなど)に関しては、個人のブログのほうが活発に意見が発信されていて、しかも新鮮で読み応えのあるものが多いのが現状だ。
そして、その手の微妙なテーマに関する発言であるからこそ、受け取る側が嫌悪感を感じることもありえる。もちろん、先にあげた幾つかの「炎上の要素」が、極端に突出しているようなエントリは叩かれやすい性質があるわけだが、どちらにせよ、炎上が起こるのも日本に「言論の自由」があるからだ。言うも自由、言わないのも自由、反論も自由。国家レベルで言論を弾圧しているような国家に比べれば、日本の表現の自由というものはすばらしいと思う。
炎上を起こすブログは、その内容も含め、起こるべくして起こる理由が必ず存在する。中には、わざと読者を「釣って」みたり、他人の嫌悪感を煽ったりしているものもある。また、マジョリティ(多数派)の上に居座って、放言を繰り返すようなブログもある。ただし、非常識なエントリには、当然のように良識派のコメントが続くものだ。それはむしろ、正常な社会なのではなかろうか。考えようによっては、炎上するほどのコメントがつくというのは、多くのファンを抱えるのとほとんど同義なくらい、名誉なことかもしれない。
もちろん、論争はあくまでも理論と理論、ことばとことばによる、理性ある会話であるべきである。差別じみた個人攻撃や、家庭にまで影響を及ぼすような個人情報の暴露などには、到底賛同できないし、厳しく糾弾する必要があると思っている。
ただ、「炎上」ということばに気後れし、風通しの悪い、言いたいことも言えない世相が広まりはしないかということに、一抹の不安も感じているのである。
NETWORKWORLD12月号(2006年10月18日発売)掲載
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